昭和五十一年十二月二十二日 朝のご理解
松永享四郎
ご神訓一.
「食物はみな人の命のために天地金乃神の造り与えたまうものぞ。」
確かに食物は、天地が、私共人間氏子のために、お恵み下さるのである、これは、誰でもそれを否定する者はなかろうと思う、ほんに、そう云えば、そうでしょうねと、皆が肯定致します。
それを、決定的に、合点させるために、教祖は、それを頂く時に、神様頂きますと云う心あらば、当たる事なしと仰有っとられます、それを、煮て食する時、神様頂きますと云う心あらば、当たる事なし、障る事なしね、そこに、至って来る時に、この食物、これは訓ですけれども、大変にすぐれた、世界中の氏子に、誰でも、どこの国の人にでも、判らせられ、感謝の心を発揮せしめる、来させるみ教えと、所謂、普遍性に富んだみ教えだと云う事が云えますね、只、説明をしただけでもです。
食物は天地の神様がお恵みに下さったもんだと、成るほど、天地のご恩恵によるんだと云う事を判らせられ、それを、徹底的に、宗教的に判らせて下さるのが、それを、煮て食する時にです、神様頂きますと云う心あらば、障る事がない、これはもう体験の世界です。 あれを食べたら腹が痛んだとか、これを食べたから、身体がどうだったと、云うのは所謂、信心で頂きますと云う心が無いから、障ったり、当たったりしたんだと云う事が云えます。
又、次に戒めておられます、大酒大食をしてはならん、大酒大食は、絶食のもとになる、と、こう厳しく教えておられます、大酒大食ではなくて、適当に頂けば、然も、神様頂きますと云う心あらば、障る事はないと云う、本当に教祖の神様のみ教えの素晴らしいと云う事が、判るでしょう皆さん、人間の命のために、例えば、野菜も、魚も………
先日は、南米の小さい人種ですね、まるで、子供の様な人種が居るところがありますよ、そこを、まあ探検でしょうかね、あれが、テレビで出ていましたが、お猿さんの脳が一番御馳走らしいですよ、それを、探検に行ってる人に焼くか、煮るかして、出しよるんですよ、わあ-っと云いよりますね、だから、例えばそう云う肉食と云ったものでもです、やはり、命のために、天地の親神様が、人間のために恵んでおられるのです。
そう云う例えば、あのう、広範囲に然も、誰でも合点がいく、それを、決定的に、宗教的に判らせるみ教えが、それを、頂く時に、神様頂きますと云う心あらば、障る事はないと仰有っとるところですね。
只、漠然と判らせられますよね、食べ物は、人間のために作り与えてあるんだと云う事は、誰にだって判るんです、成るほど、天地の恩恵だと云う事が判ります、それを、頂きます神様と云う事になったら、障る事なしと云うところに、宗教的な表現になって来る、と云うてもです、例えば、それを食べ過ぎたり。飲み過ぎたりしたら、今度は、命を絶つ様な、物が食べられない事に迄、なると云う風に教えておられますね。
もうその事から、頂いても大変に優れたみ教えであるし、金光教の信心が如何に、世界の国々の隅々までも、行き渡ったら素晴らしい事だろうと云う事になる、その宗教が出来たために、今まで猿を食べよったものが、猿も食べられんごとなる、今まで、牛肉を食べよったものが、牛肉も食べられん様になる、今までお酒飲みよったものが、もう、何々教を信心すると、お酒も飲まれんごとなると云った様なね、そう云う偏屈なものではないと、云う事です。
金光教の信心は実に大らかです、実に普遍性に富んだ宗教だと云う事が云えます、その事柄だけでも、世界の名教と云う事が云えますよね。
〇〇教は、肉食をしてはいけないと云う、〇〇教は、お酒を飲んではいけないと云う、それを、命のためにとして、頂く時にです、野菜も生きる、魚も生きる、なら、私共が、栄養も片寄らんで済むおかげが受けられるのです。
そこで、私共が判っただけではない、神様頂きますと云う、そこんところに、頂きますの云うなら、程度です、頂きますの度合いです、段々それが、深こうなって来ると云う事が云えます、勿論、だから、大酒、大食は出来んと云う事になります。
そこに、勿体無いと云う心も、有り難いと云う心も、有り難うございますと云う心も、だから、この信心の三大要素と云われる、お礼も、お願いも、お詫びも、一切が食物訓の中に入るのです。
昨日、日田の綾部さんのところの、2番目に息子さんの、九一郎さんと云う方のお孫さんが、二人目の立派な息子さんが生まれとります、綾部洋平、太平洋の洋と云うのと、平たいと云う字、素晴らしいですね、綾部洋平、昨日が初参りでした、それで、おばあちゃんと、ご夫婦でお参りになりました、神様にその事をお礼申しておりました。
あの瓢箪ですね、ヒサゴあれは、中がこう小さくなってますね、大きな瓢箪でも、この真中のところを握れば、握り良いわけです、だから、親がちゃっと、握るところを握って、と云う事は、頂くところ、信心をしっかり頂いて、所謂、あれは、有り難き、勿体無きお酒を入れるものですからね、
有り難き、勿体無きの信心をして行けば、神様は、云うなら子供は、見事なお育てを頂く訳ですけれども、握るところを、握らずに、自分が育てよう、自分が教育しよう、自分が躾をしようと云うところに、出来そこのうて来ると云う意味の事を頂いて、私が、物心ついて、覚えておる頃から、ず-っと今までの事を頂いた、ご祈念中に。
もう本当に子供心にも、忘れられないね、もう来るたんびに、おもちゃを持って来たり、私が、しもやけが大変しよったから、しもやけの薬をもって、冬、来たりする青年の方がありました、もう本当に、そして、その青年の方が、持って来て呉れるおもちゃは、良いおもちゃばかりでした。
まあ、田舎の子供が持たん様なおもちゃを、持って来て下さるんです、それが、段々段々まあ、縁が遠うなったんですけど、その方は、つい近頃迄、草野の町長をしておられた、吉木満雄と云う人でした、そりゃ、兎に角、優しい人でした、青年の時、子供好きと云うわけでしょうね、それが、どうした事か知らんけど、大変可愛がられた、私は覚えとりますが。
だから、あちらの町長選挙の時などは、私はもう、椛目あたりは、あの人派じゃなかったですもんね、その当時、それでも、私は、一生懸命運動さしてもらいました、子供の時に、そう云う可愛がられとるけんで、向こうはもう忘れちゃる位です、それで、その後に母が亡くなりました時に、お悔みに来て下さって、その時に、昔の話をした、ほんに、そげな事もありましたよと、云う話も出たんですけども、もう本当に、確かに、嬉しい事、悲しい事はどげん子供の時でん、覚えとりますね。
もうその頃からの事をホ-ッと、それからいじめられた事、それから、酒屋の小僧に行った時分の事や何かを、ず-っとこう頂いた、そして、親が握るところを、握っておった、親が、信心で、云わば、私を育てて来て呉れた。
親は、教養も無ければ、力もないけれども、只、信心一筋に、私共を育てて呉れた、もう一事が万事にそうであった、もうようやく、一人で善導寺迄、お参りが出来る様になりますと、もう必ず試験があると云えば、遠足があると云えば、又は、運動会があると云えば、必ず一人でお初穂を作って呉れて、お賽銭と、小さい機関車が走ってましたね、あの軌道線と云いましたね、軌道に乗って、お礼に出させましたし、そして、私は思わして頂いた事でしたけれども、可愛がられたり、いじめられたり、それが全部神様の愛の手であり、お育てであったと云う事であります。
そして、今日の私が育っていると云う事であります、もう若い時、あん奴から、そりゃいじめられたけんで、あん奴が事はもう、一生忘れられん、と例えば云うのが、普通でしょう、神様がそれこそ、撫でたり擦ったり、場合には、叩いたりしてまでも、私を今日ここまで育てて下さったのは、神様の特別のお躾を受けて来たんだと、云う事になります。
それで、その事を昨日、その赤ん坊を育てると云う事は、只、育てさせて頂くお手伝いをさせて頂くだけで、本当は、神様にお任せしたお育てを頂か無ければ、本当な事にはならない、それこそ、名前が示す様に、洋々たる、大きな大人物に、神様がお育て下さろうとなさっても、親が、ああしちゃいかん、こうじゃないと云うて、小さくしてしまう様な事ではいけません。
そのためには、親が握るところを握っとかねばでけん、信心をしっかり頂くと云う意味なんですよ、と云うてお話をしたことですけど、まあ今日のこの食物訓から、これを、私共の命のために、食物がある様に、起きて来るすべての事柄、すべての問題が、私共をお育て下さろうとする、神様の神愛以外にないと云う事であります。
だから、それを愈々食する時、神様頂きます心あらば、障る事なしと、云われる様に、それが、痛い事であろうが、又、辛い思いをするであろう時もあろうけれども、それを、神様頂きますと云う心あらば、と云う事にになって来ます。
障るところどころではない、それが、私共の血肉になって来ると云う事が判ります、だから、この食物訓は、そう云う風に、本当に信心の云うならば、合楽理念の、この芯に触れる、み教えだと云われます。
普遍性に富んでおる事、そして、信心のない者にでも判らせられる事、それを、信心を判らせ様と、例えば、体験をしてみてみなさい、兎に角、神様頂きますと、頂いてご覧なさい、そこには、次の、霊験が生まれると云う事、障る事なしと、云うおかげが頂かれると云う事、からと云うて、大酒大食したんでは、絶食の元になりますよと、云う事を、どこの人種にだって、これが判らない筈がないでしょう。
しかも、この様に素晴らしい、云うならば、道理に合った信心はないでしょう、豚を食べちゃならんとか、牛を食べちゃならんと云う宗教がありますよ、そんな云うちゃない、もう命のために、与えて下さってあるんだと、云うのですから。
それを、翻って、今度は、食物ではない、一切の云うなら、神様の働きそのものがです、私の上に起きて来る事が、それは、可愛がられたり、いじめられたりと、言葉で云うとそうですけど、そのいじめられる事にすら、神愛が込められてあると云う事。
神様が、知恵も力もその様にして、お育て下さってあると云う事を、私共が思う時にです、神様頂きますと云う心で、すべての事を頂かして貰わなければならない事が道理の上でも判ります、私を育てて下さる事のために、その問題もあるんだと云う事なんです。
合楽理念の、云うなら、核心に触れて来る訳です、私共は、今日、皆さんに聞いて頂いた様な事がです、もし、信心のない人にでも、信心を云うならば、語る時に、食物訓一つお話をしても、あ、金光様の信心ちゃ、素晴らしい、大きい、広い信心だなと、成るほど、人間がする信心だなと、云った様な事を、判らせられる程しの、み教えだと思います。
そりゃもう、金光様の信心すれば、これだけは、食べられんばのと云った様な事は無い、然も、起きて来るその問題そのものもです、それは、あなたのためにある、問題だと云う風に教えられます。
そして、それを頂きますと云う、云うならば、宗教的体験が、頂きますと云うところから、生まれて来るんだ、それが、金光教の信心だと、説明が出来るですね。 どうぞ。